NGraphエヌグラフ
三

三菱グループ

Mitsubishi Group

日本企業· 100年+ レジェンド·156年·日本・1870年
79
/100

世間

8/10

相手

8/10

自己

8/10

卓越ライン(75)を 4 点上回る

存続 47卓越 75
メガロプシキア(高邁)

岩崎弥太郎が土佐藩から独立して作った、日本最大の企業集団

12項目

47/60

+

3軸

24/30

+

加点

+8

=

NCG

79/100

加点の理由:[時間+影響+資本+戦略] 156年+官民連携モデル+日本最大級グループ

当時の状況

1870年、土佐藩の有力者が私商社「九十九商会」を設立して藩の海運事業を譲り受け、その経営と監督を岩崎弥太郎に任せた。翌1871年の廃藩置県で藩が消えると、弥太郎が経営を引き受ける。1873年に三菱商会と改称して弥太郎が社主となり、1874年の台湾出兵、1877年の西南戦争では政府軍の輸送を一手に担った。西南戦争当時の所有船は61隻で、日本の汽船総トン数の73%を占めた。1884年には官営長崎造船所を借り受けて造船に進んだ。現在は三菱商事・三菱重工業などが、1952年に発足した社長会「金曜会」でつながっている。

Telesテレスの所感

三菱の原点は「岩崎弥太郎が土佐藩の海運を引き継いだ」こと。1870年、藩の有力者が作った九十九商会の経営を任され、翌年の廃藩置県で弥太郎が事業を引き受けた。1874年の台湾出兵、1877年の西南戦争では政府軍の輸送を一手に請け負い、西南戦争の頃には日本の汽船総トン数の73%を握った。1884年に官営長崎造船所を借り受け、1890年には政府の要請で丸の内の土地を買い、海運から造船・銀行・商社へと明治の20年余りで一気に多角化した。1946年に三菱本社は解散したが、1952年には各社が三菱の社名に戻り、社長会の金曜会で連携を続けている。156年の軌跡は「政府事業と民間起業家が組む」モデルの成功例だろう。「国の仕事を取りに行く」ことを恥じない姿勢が、三井の商業重視とは違う三菱の色を作った。その近さは強みか、それとも危うさか。

存続の鍵

「政府の仕事を取りに行く」ことを恥じない姿勢で、明治の20年間に海運→造船→銀行→重工業まで一気に多角化した。政府事業を民間が担う契約構造そのものがモートになり、戦後に解体されてもブランドで再結集できる求心力が156年ブレなかった。

12項目スコア(47/60)

強みA ターゲット市場・C ソリューション・D チーム・E トラクション・K タイミング・L 独自の洞察

Aターゲット市場5/5

海運から鉱山・造船・銀行・商社・不動産へ。1890年には政府の要請で丸の内・神田の土地約11万坪を買った

B課題の実在性4/5

明治初期は民間に大資本がなく、政府は台湾出兵や西南戦争の軍事輸送を担う民間の船会社を必要としていた

Cソリューション5/5

政府の軍事輸送を請け負って信頼と資金を得て、1884年の長崎造船所借用など官営事業を引き受け多角化した

Dチーム5/5

弥太郎・弥之助・久弥・小弥太の岩崎家4代が社長を継ぎ、1908年には各部門に責任を持たせる仕組みを入れた

Eトラクション5/5

1870年から156年。1946年に三菱本社は解散したが、1952年に各社が三菱の社名に戻り、連携が復活した

F参入障壁4/5

三菱の商号と丸の内の土地。1934年制定の「三綱領」が、今もグループ共通の理念として受け継がれる

G収益モデル4/5

各社が独立して稼ぎ、商流でつながる。中核の三菱商事は2025年3月期に純利益9,507億円で商社首位

H財務計画4/5

三菱UFJ・三菱商事ともに兆円規模の企業。三菱商事の2025年3月期純利益は9,507億円(前期比1.4%減)

I資本効率3/5

1946年の本社解散後は各社が独立し、社長会の金曜会でつながる。意思決定は分散し、調整に手間がかかる

J出口戦略3/5

持株会社は財閥解体で消え、各社が個別に上場。1964年には分割された重工3社が合併し三菱重工業に戻った

Kタイミング5/5

1874年の台湾出兵、1877年の西南戦争という政府の輸送需要に乗り、明治初期に一気に基盤を築いた

L独自の洞察5/5

「政府事業を民営で引き受ける」モデル。1877年には日本の汽船総トン数の73%を握る民間企業になった

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